下記は7年前の2006年6月23日に「25年後に実現させたい知識社会の姿」と問われたことに対して書いた原稿で、本邦初公開です。(*^_^*)
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「知識社会とは何か?」-25年後に実現させたい知識社会の姿-
お目覚めシステム
2030年、東京・芝浦のマンション。五月晴れ。
「朝よ。早く起きて。もう7時よ。今日は上海で大事な会議でしょう?」。
ベッドのスピーカーから、彼女の優しい声が聞こえる。彼女の声で目覚める朝は幸せだ。声の主は1ヵ月前、いきなり僕を振った元彼女。付き合っていた頃に携帯電話に記録された「彼女の声」を目覚ましコールに使用している。未練がましいと思うが、声データの使用期限を変更しない彼女も悪い。しかし2015年に改正された「個人情報保護法」により他人の声データの無断使用は禁止されている。「ばれたら訴訟かな・・・」。
こんなことを考えながらまどろんでいると、「7時半だぞ。起きているだろうな。今日は社運をかけたプレゼンの日だ。9時半までに上海の万博記念ホテルに来てくれよ」。ボスの声がスピーカーから響く。これも前日に僕が仕掛けた目覚ましコールだ。ただし「ボスの声」は合法的な使用。社用であれば上司の声データは使用可能と内規で規定されている。「ちっとも嬉しくないけど」。
こんなつまらないことばかり考えていると、ついにベッドが傾き始め、天井から体内時計をリセットする擬似太陽光が照射され始めた。寝室の壁からは交響曲が大音量で流れてくる。居間ではブラインドが自動的に全開となり、太陽が燦燦と照りつけている。厚さ2mmの壁掛けテレビもニュース番組を伝え始め、キッチンではコーヒーメーカーやパン焼き器が動いている。マンションに標準装備されている「お目覚めシステム」がフル稼働し始めた。僕が起き上がるとベッドは水平に戻り、擬似太陽光は室内灯に変わり、寝室は静けさを取り戻した。
兄さんからの緊急依頼
洗顔、着替えを済ませ、液晶新聞を片手に持ちながらコーヒーを飲み、パンに噛りついていると、壁掛けテレビが「お兄様からテレビ電話です」と画面の切り替え許可を求めてきた。「切り替えてくれ」というなり兄の顔が大写しになった。兄は世界一のユニバーサル銀行で役員をしている。僕は大学時代に物理学を専攻してから東京理科大学の知財専門職大学院(MIP)を出て、世界有数の「時間ビジネス」企業に勤めている。兄も僕も労働者の9割が属するサービス産業に従事していることになる。
「兄さん、久しぶり。どうしたの?」と聞くと、「いつもながら申し訳ないが、助けてくれ。今日中にブラジルにいる顧客を日本の病院に入院させて欲しい。重い脳梗塞だから『札幌セントラル病院』の「遺伝子治療」でしか完治できないと判断された。家族3名も付き添って来日する。飛行機は最新鋭のものをチャーターしてくれて結構。ホテルのグレードは5星以上だ。食事は豪華に。家族を退屈させないでくれ。万事任せる」
兄さんからの電話はいつもVIP対応の緊急依頼だ。今や日本は世界有数の医療国家だから世界中のVIPが治療に来る。付き添いの家族に対する観光や娯楽メニューが充実していることも日本のセールスポイントである。病院の手配も娯楽の算段も「時間ビジネス」の領域である。「オーケー。データを至急送って下さい」と言った瞬間、テレビ画面の右上に「お兄様からデータを受領」と表示が現れた。「兄さん、10分以内に手配するよ」と言うなり、僕は会社のシステムに発注をかけた。
エリカの笑顔
「いつもありがとう。恩に着るよ」と兄さんが礼を述べていると、姪の姿が画面の奥に写った。「エリカは元気ですか」と思わず尋ねた。2週間前、エリカは不慮の事故で大やけどを負ったが、「再生皮膚の培養技術」の驚異的な進歩で5時間以内に皮膚の張替え手術が完了したという。その後について聞くのを忘れていた。
「すっかり元に戻ったよ」と兄さんが嬉しそうに話す。会話を察し、エリカが飛んできた。顔のやけどが綺麗に治っている。本当に良かった。「おじ様、見て。ママに洋服を作ってもらったの。似合う?」エリカの母は洋裁が趣味である。「今朝、テレビで見たヒマワリ柄のワンピースが着たくてママにおねだりしたら20分で完成したのよ」と嬉しそうに笑う。義姉さんがワンピースの型紙データとヒマワリの図柄データをネット購入し、自宅で布にヒマワリ柄をインクジェットプリンターで染色し、縫製ロボットがエリカの体型データに基づきワンピースを完成させたのだ。「とても似合うよ」と可愛い姪の姿に安堵した。
日本の医療は世界最高水準だ。特に「遺伝子治療」と「再生皮膚の培養技術」は抜きに出ている。この2つの医療方法は2004年に政府の英断で特許化できることとなり飛躍的に進歩した。その後、慎重な議論が重ねられ、「医療方法全体」についても特許化が推進され、日本は医療国家となったと、中学校の「知財学」の授業で習ったことを思い出した。今振り返ると、2002年2月の小泉首相の施政方針演説から始まった知財改革は日本を「工業社会」から「知識社会」に適合させる歴史に残る大改革だった。「エリカは昔の偉人の英断で救われたんだ」
義姉さんも出てきた。「主人の無理なお願いのお礼に、ネクタイを作ってあげるわ。今日はどこに行くの?」と聞く。「9時半から上海で重要なプレゼンがあります」と応えると、「プレゼンで映えるネクタイをお届けするわ。機中で受け取ってね」と明るく電話が切れた途端、 画面がニュースに切り替わると同時に、画面右上に「全ての手配が完了」との表示が現れた。会社のシステムがブラジルのVIP一家の来日手配を完了したのである。
「ありがとう。君はいつも迅速だね」。
世界との距離は国内感覚
水素燃料の超音速旅客機が2028年に完成し、東京-ロサンゼルス間は2時間となった。上海まで25分もかからないから、マンションを8時に出れば9時には上海空港に到着する。世界一の商業都市である上海の朝の交通事情を考えても、万博記念ホテルまで30分もあればお釣りが来る。
僕は週3回は出張するが、ほとんど日帰りか1泊2日だ。国内外の出張を区別しない。出張先として多いのは、中国、インドなどのBRICs諸国、定番の米国、欧州に加え、日本国内である。「中国」に行くのは昔なら「横浜」に行くような感覚だし、「欧州」は「京都」だろう。国内出張が割と多いのは、主要都市が地方に分散化されたためである。
2030年、名古屋の域内総生産(GRP)の成長率は2000年比で9.9%延び、東京(10.7%)、大阪(10.3%)と肩を並べた。しかし少子高齢化の影響を受け、全国の6割の都市は2000年時点よりGRPを低下させている。上昇したのは、農産品、工芸品、伝統芸能、観光資源などを「知的財産」として活用し、「地域ブランド」や「日本ブランド」の構築に成功した地域である。2006年の「地域団体商標制度」の導入が契機となり、「自治体」は江戸時代の「藩」のように地域の特色を生かした製品・サービス作りに努力した。美術館や博物館も観光や教育拠点となった。地域の努力が今日の地域の明暗を分けている。
2017年に東南アジア諸国連合(ASEAN)が域内のサービス貿易の優先7分野(金融、観光など)を完全自由化し、各国は観光誘致合戦を開始した。韓国は映画のテーマパークをオープン、中国は観光へ総額2兆ドルの投資を行なった。日本は「産業観光」を振興し、「平城遷都祭1300年」などを開催した。2020年には中国人の海外旅行者が年間8億人を超え、「観光ビッグバン」が起こった。誘致合戦はさらに過熱し、各国は空港までのアクセス時間の短縮にしのぎを削った。今では芝浦から空港まで10分だ。
「8時まで5分ある。もう一杯コーヒーを飲もうかな」
「3分で搭乗システム」は世界共通特許
ITC技術の進歩で、人間の生活は劇的に楽になった。「音楽を止めて」と言うまで、部屋を移動しても音楽が追いかけてくる。音楽や映像の購入も「それ買います」と言うだけでダウンロード完了。外出時に「行ってくるよ」と言えば、防犯・防災システムが稼動し、掃除ロボットが業務を開始する。マンションの廊下を歩き始めると、エレベータが僕のフロアまで迎えに来る。マンションの玄関では僕の車が待機している。車に乗り込めば、洋服から露出している手や顔で生体認証が完了し、「空港に行ってくれ」というだけで車は自動的に動き始める。運転手がいるわけではない。車に備え付けられているオート・ドライブシステムが稼動するのだ。たまには自分で運転するけれど、朝は渋滞や事故を防ぐためシステムに任せることが交通ルールとなっている。
空港で「動く歩道」に乗れば、搭乗までわずか3分。歩道上で生体認証が行われるため、パスポート番号や行き先が判別される。「チェックイン」も「出国手続」も「セキュリティーチェック」も全て歩道上で完了する。このシステムは2012年に「世界共通特許」として成立し、多くの空港で採用されている。
上海行きの飛行機は短時間のフライトのため、自席に備え付けられたドリンクシステムを利用する。離陸後間もなく、若い乗務員が近づいてきた。僕の名前を一応確認するなり、赤いリボンのかかった箱が手渡された。「エリカとお揃いのヒマワリ柄のネクタイかな」。開封すると、赤地に龍の模様が並んだ鮮やかなネクタイと「GOOD LUCK!!」と書かれたカード。「御利益あるかな」。
知識社会と時間ビジネス
20世紀末、先進国は「知識社会」への移行を開始した。科学技術と文化の発展による「豊かな時間」の創造が知識社会の命題である。知識社会では「情報」が生産財の中心となり、このため影響ある領域は「グローバル」となった。工業社会との決定的な違いは「豊かな時間」という新しい中心価値の誕生だ。中心価値の変遷を振り返ると、「農業社会」では餓死しないことが最重要であり「食糧」に中心価値があった。「工業社会」では「食糧」の確保を前提とし、大量生産・大量消費の恩恵を被るために「富」に中心価値が移った。「知識社会」ではこれらを前提として「豊かな時間」に移った。
趣味やライフスタイルは個人差があるため、「豊かな時間」には多様性が内在する。定量的な計測も困難である。このため新しい価値としてなかなか認識されず、初めて発見されたのは2006年のことであった。 「アメニティー(快適空間)」という言葉があるが「時間」が静止している感が強い。「豊かな時間」とはアメニティー(三次元)に、時間軸を加えた四次元の世界である。この流れを受けて、「時間ビジネス」は「豊かな時間」を提供するサービス産業として誕生した。具体的には、観光、娯楽、習い事、芸術鑑賞、美食、美容、製品開発、農業体験、モノ作り経験、退職後の生活設計が主流だが、心を和らげる点から病院の手配なども受注している。
何と古典的な話だ
今日のプレゼンの準備にはたっぷり1ヶ月以上を費やした。BRICs諸国は仕事先として重要であり、上海における受注は他のBRICs諸国のビジネスに繋がる。今やブラジルは17.5億人、インドと中国はそれぞれ14.5億人、ロシアは12.5億人と世界人口の大半を占めている。
話を中国に戻そう。中国は、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博の開催で様変わりした。交通網はもちろん、「模倣品国家」から「イノベーション国家」に国民意識を大改革した。2030年に中国のGDPは世界の30%を占めたが、人口はまもなくインドに抜かれる。市場規模で牽引した産業構造は限界となり、中国政府は危機感を募らせている。
今回は「イノベーションを誘発する修学旅行計画」がコンペ対象だ。我社は、「ハイテク技術」と「伝統文化」の相乗効果を訴えた。日本の「科学技術教育」は各国の垂涎の的であり、「伝統文化教育」によるオリジナリティーのある製品作りは強い国際競争力を誇っている。僕の迫力あるプレゼンに満場一致で採択された。毎年数千万人の中国人学生が日本に修学旅行で来る。なんて凄い話だ。
「最後は君のネクタイが決め手だったそうだ。責任者が中国文化を知り尽くしている我社を強く押してくれた。赤は中国の色、龍は象徴だ。君は本気を出したら凄いね」。その夜の祝賀会でボスが褒めてくれた。「何と古典的な理由だ」。
すると突然、ボスの背後から僕の彼女が現れた。「大プロジェクトが成功するまで離れていてくれとお願いしたんだ」。ボスは平謝りに謝る。「何と古典的な手法だ」。
2031年、東京・高輪のマンション。冬晴れ。
「朝よ。早く起きて。もう7時よ。今日はニューデリーで大事な会議でしょう?」
ベッドの横から、彼女の優しい声が聞こえる。薄目を開けると赤ちゃんを抱いた彼女がいる。僕はどうやら昨年の出来事を夢で思い出していたらしい。
「彼女の生の声で目覚める朝は幸せだ。人生はこうでなくちゃ!」
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